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by hoenryu

2月22日 「聖徳太子の日」・小手毬(コデマリ)

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622年(推古天皇30年)の今日は、日本の国家安泰と文化の象徴と言える聖徳太子が、斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去(薨去)された日。「太子会(たいしえ)」の日。
太子ゆかりの広隆寺・法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では、太子の遺徳を偲ぶ法会がおこなわれるそうです

聖徳太子は、574年に飛鳥の地に、第31代・用明天皇の第二皇子として誕生しました。
母は蘇我一族の皇女で、宮中を散歩中に厩戸の前で太子を出産したと言われ、厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれました。
幼い頃から大変聡明であったとされ、その例えは様々に語り継がれており、
「日本書紀」には、別名を 豊耳聡・聖徳・豊聡耳・法大王・法主王などと記され、
太子が二歳の時のこと、釈迦が入滅された仏涅槃(ぶつねはん)の日の夜明け前に目覚めた太子は、東方に向かい手を合わせ、「南無仏」と何度も唱えられたと伝承されています。
太子が13歳の時に、父の用明天皇が即位され、蘇我馬子の要請で、天皇は仏教帰依を表明しますが、天皇在位二年での急死により、蘇我氏と物部氏との間で戦争が始まることとなります。
19歳で、蘇我馬子と推古天皇の厚い信頼により摂政に抜擢され、仏・法・僧の三宝を興隆し、憲法十七条の制定や、冠位十二階制により天皇の中央集権を強めるなど、数々の偉業を成し遂げたと伝えられています。
また、小野妹子を遣隋使として派遣し、大陸文化を導入しました。
622年の旧暦2月22日に、太子は御年49歳で病にて薨去されたとされています。
太子が目指した天皇中心の政治は、その後、中大兄皇子らに受け継がれ、645年に「大化改新」が行われるに至りました。
特に仏教の興隆に尽力し、法隆寺や四天王寺を建立したとされ、
仏教を保護したことにより、平安時代には聖徳太子自身が信仰の対象となり、多くの太子像が作られました

ただ、聖徳太子が本当に存在したのか、十七条憲法は本当に有ったのか等、疑念を持つ声が多々あります。
それは、遣隋使に関する事が書かれた中国正史「随書」と、日本書紀の内容に一致しない点が多く有ることによります。
十七条憲法の原本や写本は現存せず、720年頃に書かれた日本書紀に記載されているだけという観点から、後世の創作だとする説も根強く存在します。
冠位十二階は、605年から648年まで使われましたが、蘇我馬子の関与の方が大きかったとも言われています


今日の誕生花は、「小手毬・コデマリ」

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「コデマリ」は、細い枝や葉が見えなくなるほど白い小さな花を多数咲かせ、枝が垂れる姿がとても趣があり、庭木や切り花として愛されています。
同じ仲間の「ユキヤナギ」よりも遅く開花します。
「コデマリ」は、古く中国から渡来し、江戸時代初期から観賞用に栽培されて来ました。
和名は、花の集まりを小型の手毬に見立てた事に由来するそうです

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by hoenryu | 2021-02-22 09:00 | 聖徳太子 | Comments(0)